翌朝、ユストは早から荷造りを始めました。少ない荷物をまとめていると、おばあちゃんがおじいちゃんのお古を持ってきてくれました。おばあちゃんは申し訳なさそうにしていましたが、突然、異世界に飛ばされたユストにとっては、とてもありがたい贈り物でした。ユストが川に飛び込んだときに着ていた服も、いつの間にか洗って繕われていました。
おばあちゃんはユストの服だけではなく、髪も気になっていたようで、ユストを鏡台の前に座らせると、痛んだ髪に香油を塗り、丁寧に梳かして後ろで一つに縛ってくれました。
「はい、でき上がり!」
おばあちゃんは髪を縛り終えると、ユストの肩をポンと叩きました。
「惚れ惚れするくらい良い男ですよ。」
おばあちゃんは満足そうに頷きました。
髪を縛ってもらった効果は絶大で、ユストは急に視界が開けたような気がしました。今までなぜあれほど鬱陶しい髪型を我慢できたのか自分でも不思議です。
「どう?すっきりしたでしょ?でも傷は見えてしまうわね。大丈夫?」
おばあちゃんは少し心配そうに聞きました。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。お蔭で目の前がとても明るくなりました。旅の間はずっとこうしていようと思います。」
ユストがそう言うと、おばあちゃんはにっこりしました。
「あなたならそう言ってくれると思いましたよ。」
二人がそんな会話を交わしているときも、リューイがやっと起きてきました。昨夜、遅くまでユストと話していたので、なかなか起きられなかったのです。
「ユスト、本当に帰っちゃうんだね…」
ユストの荷物と髪型を見て、リューイは寂しそうに言いました。
「世話になったな、リューイくん。ミュウを宜しく頼むよ。」
ユストはリューイの頭を優しくなでました。
「ユスト…」
ユストは二人に礼を述べ、別れを告げると妖精たちを連れて家を出ました。
おばあちゃんとリューイはユストを門のところまで見送るつもりでしたが、急に別れ難くなり、結局、ユストが馬を繋いである小川の畔まで見送ることにしました。
小川の近くの大きな木には一頭の美しい青毛*が繋がれていました。三人が近づくと、馬の足下にいた丸くて茶色い何かがひょいと立ち上がりました。頭には長い二つの耳が生えています。茶色い生き物は、そのままの状態でしばらく鼻をヒクヒクさせていましたが、三人が少し近づくと、ピョンと飛び跳ねて逃げてしまいました。
「あっ!野ウサギっ!」
臆病な野ウサギをこんなに近くで見られるのは、リューイも初めてでした。リューイは思わず後を追いかけようとしましたが、ウサギはあっという間に姿を消してしまいました。
青毛の馬はリューイたちが近づいても気にすることなく、のんびりと草を食んでいます。ユストが「ナミ」と声を掛けて馬の首筋をポンポンと叩くと、馬は気持ちよさそうに目を細めました。
――大きい!怖い!
初めて見る馬は想像以上に大きくて、リューイは近づくことができませんでした。心臓がドキドキしています。
「可愛いだろう?」
――可愛い?!
先程までうるさいくらいユストに話し掛けていたリューイは、馬を見た途端、急に静かになってしまいました。
ユストが馬の鼻づらにキスをすると、黒馬は甘えた様子で、ユストに鼻先をぐいぐいと押し当ててきました。この時はリューイもまだ知らなかったのですが、実はユストは「超」がつくほどの馬バカでした。
一方、リューイと同じくらい小さいおばあちゃんにとっても、黒い馬は巨大な生き物に感じられました。だだでさえ大きい上に、黒い色のせいでさらに威圧感が増しているように感じます。が、リューイに輪を掛けて動物好きなおばあちゃんはそれぐらいで引くようなことはありませんでした。馬のこともユストから前もって聞いていたので、持ってきたニンジンを取り出すと、早速、食べさせてみることにしました。
馬はニンジンを見るとお礼を言うように何度か頭を上下に振り、おばあちゃんを怖がらせないようにニンジンの端っこをそっとくわえました。
「あら、いい子ね!大人しくて可愛いこと!」
ニンジンの袋は重たかったけれども、頑張ってここまで運んできた甲斐がありました。
馬がニンジンを好むというのはどの国でも共通の認識のようですが、正確には馬はニンジンが好きなのではなく、甘いものが好きなのです。甘い物が高価だった時代には、ニンジンやリンゴなどが甘い物の代わりとなりました。しかし、角砂糖とニンジンの両方を並べられたなら、どの馬も迷わず角砂糖を選ぶはずです。
「触ってみるかい?」
ユストが笑顔全開で訊いてきました。リューイが断ることなど毛ほども考えていない様子です。――いいえ、結構です。犬や猫とは違います。
リューイは黙って頭と手を横に振りました。しかし、笑顔のユストは無言の圧力をかけてきます。リューイはもう一度、ユストを見ました。今度は笑顔で頷かれました。ユストがリューイに何を望んでいるかは明白です。
「…」
無言の圧力におされて、リューイは仕方なく馬のほうに手を伸ばしました。伸ばした指先に馬の温かい鼻息がかります。犬や猫と違って、馬は鼻の穴が大きいので鼻息も荒く感じます。馬はリューイの恐怖を察したのか、動かずにじっとしていました。リューイは勇気を出してちょっとだけ馬の鼻先に触れてみました。温かくてとても柔らかいクッションのような感触でした。リューイはなんとなく馬の鼻先は濡れているような気がしていましたが、触ってみるとさらりと乾いていました。――すっごい、ふかふかだ。
もう少し触ってみたくなったリューイは、もう一度、手を伸ばしました。馬は優しい目でじっとリューイを見ていましたが、リューイが手を伸ばすと、ぐっと頭を下げてくれました。馬が頭を下げてくれたお蔭で、今度は馬の長い鼻づらまで触ることができました。鼻先と違って、馬の鼻づらはすべすべして、薄い肉の下には固い骨が直に感じられました。リューイはちょっと感動しました。「すごいね!」
何がすごいのかわかりませんでしたが、とりあえずユストも頷き返しました。
「馬は賢くて穏やかな生き物なんだよ。だから滅多に怒ることはないけど…」
ユストは茶目っ気たっぷりにウインクをすると、馬の2つの鼻の穴を、大きな手でピタッと塞ぎました。
「こういうことをすると怒るかもね。」
馬は少しの間、大人しくじっとしていましたが、やがて息が苦しくなったのかブルルッと嫌そうに首を振ってユストの手を払い除けました。その様子に、リューイもおばあちゃんも思わず笑ってしまいました。
――僕もやってみた~い!
とは思いましたが、いたずらっ子のリューイでもそれは言い出せませんでした。

* 青毛:馬や獣の毛色の名。つやのある黒色で、青みを帯びて見えるためにいう。(日本語国語大辞典)
* 馬は口呼吸ができないので、鼻を塞がれると息ができなくなってしまいます。良い子の皆さんは真似をしないでくださいね。


コメント