おばあちゃんがクローゼットを開けると、ユストは安心したように溜息を吐きました。
ユストは背負っていたリュックからすり鉢と乳棒を取り出すと、慣れた様子でイノンドをすり潰し始めました。
イノンドがすり潰される度に、部屋中に爽やかな香りが広がりました。ユストたちの国では、イノンドはハーブとしても重宝されているそうです。例に少し貰って口に含んでみると、苦みは殆どなく、ほんのりとした甘みが感じられました。葉や茎と違って、種はピリリと辛いのだそうです。
イノンドの香りに刺激されたのか、赤ちゃんドラゴンはカゴから顔を出すと、クンクンと匂いを嗅ぎ始めました。ユストが赤ちゃんドラゴンの口元にスプーンを近づけると、少し匂いを嗅いから、素直に口を開けました。
うっくん
赤ちゃんドラゴンの喉元にある嗉嚢が大きく動きました。
うっくん
また一匙。
うっくん
一口、二口と食べているうちに何日間も絶食していたことを思い出したのか、赤ちゃん竜は夢中でイノンドを食べ始めました。一口飲み込んでは翼をばたつかせて次を催促します。
余談ですが、嗉嚢というのは鳥類によく見られる器官で、食道の一部が袋状になったものです。鳥類などはこの中に食物を一とき的に蓄えておき、少しずつ胃に送ることができます。よく嗉嚢と砂嚢を混同する人がいますが、嗉嚢は食物を蓄えるだけ器官ですので消化機能はありません。一方、砂嚢は胃の一部なので消化機能があります。鳥は意図的に小石や砂粒を飲み込んで砂嚢の中に溜めておきます。胃が動くとこの小石や砂粒と食物が擦れて細かく砕かれます。
ドラゴンは鳥ではありませんが、見た目が似ているだけに、体の仕組みにも共通した部分があるようです。
必死になって食べる様を見ているうちに、リューイにはいつしか目の前のヘンテコな生き物が可愛らしく見えてきました。これがいわゆるブサカワというヤツでしょうか。
夢中になって見ているリューイがユストの腕をぐいぐい押すので、その度にイノンドがスプーンから零れそうになります。
「おいおい、リューイくん、そんなに押すなよ。零れるだろ。」
ユストは苦笑しました。リューイと触れ合っている腕から、健康で清潔な気が流れ込んできます。ときがゆったりと流れているように感じます。動物と子供に囲まれて過ごす時間は、政争に疲れた心を癒してくれるような気がしました。
やがて、赤ちゃんドラゴンはお腹がいっぱいになったのか、リューイがスプーンを近づけても口を開けなくなりました。ユストは眠たそうにこくりこくりと舟を漕き始めた赤ちゃんドラゴンの口の端をタオルで拭ってやると、赤ちゃんドラゴンを抱き起こして、あやすように背中をポンポンと叩いてあげました。何度かそうしていると、赤ちゃんドラゴンがユストの胸の中で頭を二、三度振り、ゲプッと空気を吐き出しました。
どうやらドラゴンも人間と同じようにゲップをするようです。リューイは妙なところで感心しました。赤ちゃんドラゴンのゲップは少しだけイノンドの匂いがしました。
ユスト曰く、赤ちゃんは胃や食道は未発達なので食べ物と一緒に飲み込んだ空気を上手く吐き出すことができないそうです。だから、こうやって大人が胃の中に溜まったガスを吐き出させてあげないと、食べた物をガスと一緒に戻してしまうそうです。
新米ママも真っ青なユストのイクメン振りに、おばあちゃんは甚く感心しました。
「すごいわ、ユストさん!素晴らしいわ!なんて素晴らしいんでしょう!貴方はきっと良いお父さんになりますよ!私が保証します!」
大絶賛の嵐です。
「そうだといいのですが…」
尚も褒めちぎるおばあちゃんに、ユストは控え目に微笑みました。
肉親と縁の薄いユストには自分が家庭を持つことなど想像も付きませんでした。しかし、もしも結婚できるとしたら、相手は彼女しか考えられません。でもその女性は…
――いけない、いけない。
ユストは慌てて頭を振りました。
しばらくすると、ユストの腕の中からすぴすぴという平和な寝息が聞こえてきました。どうやら眠ったようです。ユストがそっとカゴに戻すと、赤ちゃんドラゴンは翼の下に顔を入れて丸くなりました。心なしか顔付きも穏やかになったように見えます。お腹も一杯になって安心したのかもしれません。
赤ちゃんドラゴンをカゴの中に戻したユストは、椅子の背凭れに凭れかかると、ほっと吐息を洩らしました。
おばあちゃんは赤ちゃんドラゴンをクローゼットの中に戻し、そっと扉を閉めました。


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