別れのときが近づいていました。おばあちゃんは持っていたカゴの中からクッキーの袋を取り出しました。
「これ、今朝、焼いたばかりなの。よかったら旅の途中で食べてね。それからこれは――」
そう言っておばあちゃんは、今度は細長い缶を取り出しました。
「パウンドケーキよ。クッキーはそれほど日保ちしないけど、このケーキは三ヶ月ぐらいもちますから、スクエアードに帰ったら女王様と一緒に食べてくださいな。」
――妖精たちの言ったことを覚えていてくれたんだ。
ユストは深々と頭を下げました。
「ご厚情、感謝いたします。」
ユストはクッキーとケーキを大事そうに麻袋にしまうと、「どんなにお腹が減っても、これだけは食べませんから安心してください」と茶目っ気たっぷりに付け加えました。
おばあちゃんからの餞別をしまうと、ユストは懐から何かを取り出しました。リューイはユストも餞別をくれるのかと一瞬、期待しましたが、ユストが取り出したのは懐中時計でした。
懐中時計の裏蓋を開けると、蓋の裏側には白い石のような物が嵌め込まれていました。リューイとおばあちゃんが見守る中、ユストは剣の柄で裏蓋を軽く叩き、嵌め込まれていた石を取り出しました。よく見ると、白い石は指輪になっていました。
「これは私が女王様からお預かりした物です。女王様はこれを竜の飼い主となる者に渡すようと命じられました。この指輪には金銭上の価値はまったくありません。利益を得るためにこれを所有しようとするならば、壊れて砂に戻ると女王様が定めたからです。しかし、良い目的のために使われるなら、この指輪は非常に価値のある物となるでしょう。」
――???
ユストが何を言っているのかリューイには理解できませんでしたが、少なくともおばあちゃんは理解したようで何度も頷いていました。リューイは首を傾げつつも、指輪を受け取りました。指輪は白い半透明のすべすべした石でできていました。
ユストは言葉を続けました。
「この指輪には不思議な力が込められています。私どもの助けが必要なときは、強く念じながらこの石を覗きこんでください。どこにいてもあなたの念は私に届くでしょう。」
―-これって不思議な石なんだね。魔石っていうのかな…
リューイが石の表面を触ると、石は一瞬だけ淡い光を放ちました。リューイが慌てて手を離したので、危うく地面に落ちそうになりましたが、すんでのところでユストがキャッチしてくれました。ユストから石を受け取ると、石は明らかに芯まで熱を帯びていました。
――うわぁ、すごいや!本物の魔石だ!
「ありがとう。」
リューイはほくほくと石をポケットにしまいました。
――明日、学校に持っていってみんなに自慢しようっと!
そんなリューイの心を知ってか、知らずか、ユストは事も無げにこう続けました。
「あなたは責任を持ってこの指輪を保管しなければなりません。もしも、不注意や怠慢からこれを失くすならば、厳しい呪いがあなたに下されるでしょう。」
――ええっ!?
リューイは自分の耳を疑いました。
――呪いっ!?
冗談かと思ってユストを見上げると、ユストは真面目な顔で頷きました。ユストはときどき、物騒なことをさらりと言って退けます。
――そんなの聞いてないよっ!
別れのプレゼントをくれたのかと思いきや、失くしたら呪われるなんて、随分、理不尽な話です。せっかくですが、そんな物は受け取れません。リューイは思わずジト目になりました。
「ユスト、せっかくだけど、これ…」
ポケットから指輪を取り出そうとするリューイを見て、ユストが機嫌をとるように言いました。「リューイくんなら、ちゃんとしているから大丈夫ですよ。」
「僕、お母さんから失くし物の天才って言われているのに…」
「外に持ち出さずに大切にしまっておけば大丈夫よ。」
おばあちゃんもすかさずユストに助け舟を出します。
「そんなこと言ったって…」
リューイは思わずムッとしました。
――なんでおばあちゃんまでユストの味方をするんだよ!失くしたら呪われるのは、僕なんだぞ!
二人がやたらとリューイに指輪を受け取らせようとするので、裏でもあるのか疑いたくなりますが、そんなふうにも見えません。大人にしかわからない深い考えでもあるのでしょうか。
三人の間でしばらく押し問答が続き、結局、リューイは大人たちに押し切られるようなかたちで、指輪を受け取らされてしまいました。小学生が大人二人に敵うわけがありません。
「どうして…」
――こうなった。
リューイは心の中でトホホと呟きました。
「言い忘れていましたが、ミュウの出自と女王のことは誰にも話さないでくださいね。どこで悪党どもが聞き耳を立てているかわかりませんから。」
リューイは黙ったまま頷きました。お気楽な性質のリューイですが、さすがにここまでくると大変なことになったと思わざるを得ません。
ユストはリューイがポケットに指輪をしまい込むのを見届けると、懐中時計をちらりと見ました。「夕暮れまでにはゼノビアに着きたいので、そろそろ、出発しなくてはなりません。」
ユストはそう言うと、ひらりと馬に飛び乗りました。物語に登場する騎士のようです。
「カッコいい!」
「まあ、素敵!」
リューイはヒューと口笛を吹き、おばあちゃんは乙女のように胸の前で小さく手を組みました。「機会があれば、是非、一度、我が国に遊びに来てください。」
そう言うと、ユストは馬上からリューイとおばあちゃんに軽く頭を下げました。ユストの胸ポケットに潜り込んでいた妖精たちも、ポケットから顔を出しました。
「さようなら~。またね~。」
「バイバ~イ。」
二人、並んで手を振っています。
「気を付けてね。何かあったらいつでも戻ってきていいのよ。」
別れの挨拶をするおばあちゃんの目には、早くも涙が浮かんでいました。それを見て、リューイもなんだか泣きそうになってしまいました。
短い間でしたが、リューイはユストや妖精たちと過ごした時間を一生、忘れることはないだろうと思いました。
別れを惜しむ気持ちは、ユストも同じでした。肉親がいないユストにとって、この二日間の経験は忘れ難いものとなりました。安らぎに満ちた小さな家、素朴だけども心のこもった料理、無邪気に笑い合った時間。もう二度と味わうことはないかもしれません。
二人に請われるまま、この国に残ることを考えなかったと言ったら嘘になります。キリキアに留まれば、平凡ながらも平穏な人生を送れたかもしれせん。スクエアードではいまだに外国人であり、寄留者であるユストは、本来ならどこでも好きな場所に自由に行ける身でした。しかし、自分はスクエアードに帰ることを選択したのです。短い休暇は終わりました。おとぎの国から現実の世界に戻る時がきたのです。
「さてと、帰るとするか。」
――帰るべき場所へ。
ユストは小さく呟きました。
秋の空は高く晴れ渡り、どこまでも澄み切っていました。
「二人ともお元気で。」
「気をつけてね!」
「ユストも元気でね。」
それぞれの胸に様々な思いがこみ上げて、別れの言葉は必然的に短いものになりました。ユストはもう一度、二人に頭を下げるとナミの腹を軽く蹴りました。ナミが軽快に走り出すと、ユストの姿はたちまち小さくなっていきました。
――善い人たちだった。
一度だけ、ユストが馬上から後ろを振り返ると、米粒のように小さくなった二人がまだ手を振っているのがわかりました。ユストは高く手を上げて、二人に応えました。この地を再び訪れることは、おそらく二度とないでしょう。鞍の後ろには楽しかった二日間の思い出が積まれています。そして、道の前にはスクエアード公国と女王が待っています。
人生にはたくさんの分岐点があって、一つ一つの選択で行先がどんどん変わっていきます。今、この瞬間もユストは一つの分岐点を通過し、女王へと進む道を選択しました。
分岐点には今日のようにはっきりと自覚できるものもあれば、知らぬ間に通り過ぎてしまうものもあります。しかし、分岐点がわかっている限り、自分はこれからも女王へと続く道を選び続けでしょう。
ユストは女王へと続く道を勢いよく駆け出しました。



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